問
い
談
東
急
役
員
の
東
浦
さ
ん
渋
谷
区
長
の
長
谷
部
さ
ん
TOI NO
TAIDAN
PROLOGUE
渋谷区長と、東急役員。この2人へのソボクな「問い」を、東急株式会社の内定者と若手社員から集めました。
共通のテーマである渋谷について。そして、仕事や出世についても。問いから始まる対談をお楽しみください。
この対談は2021年春、渋谷スクランブルスクエア内の産業交流施設・SHIBUYA QWSで行われました。
PROFILE
渋谷区長
長谷部 健
1972年渋谷区神宮前生まれ。株式会社博報堂退社後、ゴミ問題に関するNPO法人green birdを設立。原宿・表参道から始まり全国60ヶ所以上でゴミのポイ捨てに関するプロモーション活動を実施。2003年に渋谷区議会議員に初当選、3期12年務める。2015年渋谷区長選挙に無所属で立候補し、当選。現在2期目。
www.hasebeken.net
著書:シブヤミライ手帖(木楽舎)
東急株式会社 執行役員
東浦 亮典
1985年、東京急行電鉄(現・東急)入社。自由が丘駅駅員、大井町線車掌研修を経て、都市開発部門に配属。その後、東急総合研究所に出向し、復職後は、商業施設開発やコンセプト賃貸住宅ブランドの立ち上げなど、新規事業を担当。渋谷開発事業部長などを経て現職。
著書:私鉄3.0(ワニブックスPLUS新書)
さて、後半戦。ここからは「会社」とか「若手」がテーマです。 東浦さん:内定者や若手社員には、渋谷よりこっちのほうが気になるんじゃない。
では1問目。
Q07
おふたりはどんな新人でしたか?
新人っていうのは、新社会人?
新社会人です。
たぶん元気だったと思いますよ。エネルギーにあふれてました。
今よりも?
今よりも。僕は、就活の面接はそれなりにうまく自己アピールもできたし、それで無事に博報堂に入社することができました。ただ、いざ入ってみたら東大とか早慶出身者が多くて、ヤバい!って。学生時代の部活だったら、そういった大学との試合はかなり気合入れてやっつけていたんですよ(笑)。だけど、同じ会社だとどうなるんだろうって。
そうだったんですね。
部活の試合では勝てても、社会人として同じフィールドに立つことには不安もありました。「みんなブラインドタッチできるんだ」とか「みんな普通に携帯電話持ってるんだ」とか、そんな些細なことなんですけどいちいち比べてビビってたんですね。だけど、ある言葉を知ってすごく勇気をもらって、そこからはむやみに人と比べたり落ち込んだりしないようになりました。それが「粒ぞろいじゃなくて、粒ちがい」という言葉です。
ああ、いい言葉ですね。
エリートだらけの中で雑草のような存在でしたけれど、その言葉に背中を押してもらいました。今年入った渋谷区の新人たちにも、君たちに求めるのは「粒ちがい」だよ、と話をしたんです。
僕の場合、根拠のない自信だけは学生時代からずっとありましたね。でも、日本の教育システムがどうも僕には合っていなくて(笑)、大学の成績は「優」が3つぐらいしかない。これじゃいわゆる一流企業に入るのは難しい。それで外資系ばかり受けていたんです。外資系は成績不問だったから、チャンスあるんだろうなって。でも、ひとつだけ日本の企業を受けたのが東急。
なぜ受けたんですか。
鷺沼に住んでいたから田園都市線の沿線だったんですけど、僕が子どもの頃はまだ土地区画整理事業をやっていて、そこらでブルドーザーが動いてる。やがて野山が住宅地に変わっていって、これ誰がやってるんだ? と、調べてみたら東急という会社がやっていた。それだけです。憧れたわけでもなくて、知ってたから受けたみたいな感じです。鉄道と都市開発の会社だったのに、面接の時には「鉄道と都市開発以外はなんでもやります、新規事業やらせてください」みたいに言って、相当変なやつだと思われたでしょうね。
よく入れましたね。
運よく入れたんだけど、20代の頃なんか会社に全然フィットしなくてですね。上司からは嫌がられていました。普通は怒られるとだんだん会社に合わせようとするんだけど、私はどこまでもガキっぽかったので「この会社のほうが古い」って自分を変えなかったし。
ロックだなあ。
おかげで20代は燻ぶった人生を歩んだんですけどね。
その状況から、どう逆転したら執行役員になれるのか。次の質問です。
20代の頃なんか、
会社に全然フィット
しなかった。
Q08
どうしたら、おふたりのように
出世できますか?
これはぜひ東浦さんから。
20代、正確には35歳くらいまで燻ぶってたんだけど、好転のきっかけはバブルの崩壊ですね。それまでは既存の成功モデルを上手く踏襲出来る人が成功していった。だけどバブルとともにそれまでの成功モデルが崩れて、みんな自信をなくした時期があったんですよね。その間に僕は新規事業をどんどんやって、いくつか当たったりして、「なんか面白いやつがいるな」みたいな感じから今の流れがきたんです。ピンチはチャンスと言いますけど、だから僕はずっと不況であるほうが活躍できると思っている。世の中が難しい時代ほど自分が求められているという、根拠のない自信に支えられて今まで来ていますね。
そういう人は強いですよね。窮地ほど燃える。
「君の企画は失敗する」って言われるほうが燃えます。振り返ってみると「いいところに着想しましたね」「これきっとうまくいきますよ」なんてもてはやされたのは、だいたい失敗してるんです。みんながすぐわかっちゃうことは失敗する。「そんなマーケットある?」と最初はひっかかりのある事業のほうが、結果としては大きな成功になりますよね。
不遇だったのに、どうやって新規事業をいくつも任されたんですか。
どれも自分からです。エリートではなかったので「これをやってみてくれ」なんて上から言われたのは一切なくて、全部自分で考えたやつ。たとえば南町田のグランベリーモールなんかも、誰もやらないからやっただけ。
2000年、南町田駅(当時)付近の3万坪の広大な空き地にアウトレットモール『グランベリーモール』が開業。その後、公園や駅前広場などを一体的に再開発することが決定し、閉館。町田市と官民連携し、2019年、22万㎡にも及ぶ『南町田グランベリーパーク』というまちへと生まれ変わった。
でも、ちゃんと会社から予算がおりている。
最初は「そんなのダメだ」「絶対ありえない」とか言われながらも、少しずつ、ブレずに、本筋的なところを中央突破していくとどこかで見てくれる人がいてですね。「面白いから賭けてみよう」って言ってくれる。東急って堅いように見えて、けっこう柔軟だから。こんなの通らないだろうと思った企画でも意外と通ったりね。自分のやりたいことができて楽しかったですよ。
そういった成功の積み重ねの先に、出世があったと。
だけど、出世のためにやったことは全然なくて。沿線も社会もこれを求めているはずだっていう確信めいたものを突き詰めていくうちに、たまたまこうなってますね。
たまたまですか。
そう。山口周さんの『ニュータイプの時代』を読んだんですけど、たとえば正解を出す人じゃなくて問いをいっぱい見つけてくる人だとか、これからの時代に必要とされるニュータイプを定義しているんですね。それを見て、僕はもう還暦近いけど完全にニュータイプなんだなって思ったんです。どこかで会社員的な処世術を身につけていたらオールドタイプになっていたかもしれない。でも結局、一度もそういうことなく駆け抜けてくることができた。やがてゲームが変わって戦い方が明らかに変わって、僕は自分の好きなようにやっていたらそこに対応していたという感じで。
なるほど。
だから、うまく出世することだけを考えるならマネしないほうがいいですよ。だいたい僕なんて、入社の時に「鉄道と都市開発以外をやりたい」って言ったのに、開発ばっかりやってる。今年になってようやく沿線生活創造事業部って、もう定年だよ。
現在の東急株式会社には、キャリアコミットメント制度や社内公募など、自分の意志で部署を希望できる制度が整っている。
みんなに
もてはやされた企画は、
だいたい失敗してるんです。
さて、長谷部さんはなぜ出世できたのでしょうか。
僕も出世しているという感覚はないんですよね。会社員を早くに辞めて、区議会議員になったりNPOを起こしたりいろいろなことをやってきましたが、ある意味では「免許が変わった」くらいの感覚です。そもそも、いわゆる金儲けは向いていないなと思っています。でも、やりたいことや世の中の役に立つことを地道にやっていけば誰かが見てくれている、という感覚なんです。そんなふうに積み重ねてきたことが、幸いにも選挙という形で評価されてここまでこられたのかなと思っています。
長谷部さんが初めて区長選挙に出馬する際に発行したタブロイド判の公約書を、今でも大事に持っているんです。公約ってだいたい固いんですけど、広告代理店にいらっしゃっただけあって、コミュニティ誌とかタブロイド紙みたいに楽しく興味深く読めるような仕掛けになってる。内容はちょっと青くさかったりとか、必ずしも票にはつながりそうにないことも書いてあるけど、でもすごく期待できるなと思って。今は2期目の途中ですが、かなりの部分を実現しているんじゃないですかね。
広告代理店にいた頃、持ち込みのプレゼンをよくやっていたんです。クライアントに頼まれたわけではなくても課題解決のためにやるべきだと自分が信じることを自主的に提案していました。区長になった今も、その頃と同じ感覚です。ですから東浦さんのお話を聞いて、生意気ですが重なる部分があるなと、とても共感しました。もうひとつ思ったのは、東浦さんはロックでありたかったんだな、と。
反骨精神ですね。ダメって言われると、よけいにやりたくなる。
ブルースじゃないんですよね。35歳まで燻ぶってたとおっしゃっていましたけど、じゃあその間はブルースだったかというと絶対にそんなことはない。もちろんたまにはブルースな日もあったとは思うんですけど、基本はロック。だからこそ、失敗も含めていろいろなことができるんじゃないでしょうか。
東浦さんは、長谷部さんのお話に共感した部分はありますか。
さっき「金儲けは得意じゃない」っておっしゃいましたよね。僕も上司にね、「東浦くんからは金の匂いがしない」って言われたことがある。でもこれ、最高の褒め言葉だよ。「こいつ、金のために生きていないな」と思ってもらえたら、相手も警戒しないじゃないですか。
どんなシチュエーションでそう言われたんですか。
街づくりをやっていて「お金の匂いがしないけど、投資したものはいつ回収するんだ」って。別に回収しないわけじゃないんです。ただ会社って、今日かけたお金を明日には回収しようとする。でも僕はその時、まず5年間はお金をかけて、10年で大きく回収しようと考えていた。タームが違うだけですよ、と答えたんだけど。
人と人との関係性って、目に見える利益でつながるだけのものではないですよね。たとえばすごく優しい人がいて、その人に優しさを返す人が一人、また一人と増えて、それがみんなの幸せにつながっていくようなことって、人間関係でも街づくりでも言えることだと思うんです。少し理想的すぎるでしょうか。
さて、最後の質問です。
世の中の役に立つことを
地道にやっていけば
誰かが見てくれている。
Q09
「若いうちに、これだけはやっておけ」
を教えてください。
まだまだ知らないこともたくさんあると思うので、興味関心を少しでも抱いたら、迷わずチャレンジしてください。僕自身もそうでした。あとは、健康管理は本当に大切です。体が調子いいほうが楽しいでしょう。
僕自身がやっておけばよかったなと思うのは、語学と音楽。音楽は聞くだけで、楽器ができなかった。楽器をやれる人生って、なんかいいよね。それに、これは世の中の公式見解みたいな感じになってしまうけど、僕たちの時代にはなかったプログラミング。あとはコロナ禍が終息してからですけど、旅ですよね。学生の頃って、どうしても同じ世代、同じ考え方の人たちと閉じこもっちゃう。社会に出ると自分とはまったく違う人たちと会うわけだから、今のうちに海外なんかに行って、見たこともない景色、聞いたこともない人たちに出会えると本当はいい。せめて国内だけでも、一人旅くらいできる状況になるといいんだけどね。
長谷部さん、一人旅のご経験は。
バックパッカーをしていました。学生時代に1か月半程、博報堂を辞める時には、たまっていた有休を使って2か月半、ヨーロッパやアフリカに行きました。特にドイツでは環境政策を自分の目で確かめて感じたことが大きかったです。その時に取ったメモは実際に今の政策に活かされていますね。
僕は若い頃にバックパッカーやれなかったから、今になってやってるんです。本当は昨年もプライベートでスペインのバスク地方に行く予定がコロナでダメになっちゃった。この歳になると、会社にいるといろんな人に手伝ってもらえちゃうじゃないですか。だけど海外では、語学に不自由なただのおじさんになっちゃうから(笑)。そういう中で、いろんなことを1人で全部こなしながら旅するのは、ふだんは使わない機能を使うので非常にいいですよね。
数年前になりますが、東浦さんからエストニアの話を聞いて僕も行ったことがありましたね。通訳さんも紹介していただいて。
昔は「エストニアって、どこだそれ?」という感じだったんですけど、今やITの最先端国家で。だから絶対に行ってみたかったんですよね。
百聞は一見にしかずということが、たくさん人生にはありますしね。
まだまだお話は続きそうですが、残念ながらそろそろお時間です。この対談が、就活生や若手社会人のみなさんのヒントになることを願っております。ありがとうございました。
若い頃
できなかった
から、
今、
バックパッカー。
百聞は一見に
しかずという
ことが、
人生には
たくさんある。
おまけ
面接のコツを教えてください。
そんなの役に立たないと思うけどな。
まあまあ。
僕は学生時代にオーストラリアンフットボールっていうのをやっていて。
けっこうハードなスポーツですよね。
そのおかげで自己PRは得意でした。競技人口が少ないこともあって、すぐ日本代表になれたんです。遠征した時、試合には負けてしまったのですが、体の小さい僕がオージーに向かっていく姿が印象的だったようでMVPに選ばれて。翌日の現地紙を見たら、一面に私の写真入りで“SAMURAI KEN”!(笑)その記事をたくさんコピーして面接のたびに出して、「僕のオーストラリアでのニックネームは、“SAMURAI KEN”です」と。そのエピソードで自分に興味を持ってもらえたというのはありましたね。
すみません。思ったより武器が強すぎました。
その話はさておき、この人に頼めばなんとかしてくれるだろう、という雰囲気は出せていたのかなと思います。実際に自分自身もそういう思いでアピールしていました。
東浦さんはいかがでしょうか。
僕には根拠のない自信があったから。東急の面接は「また通った」「また通った」みたいな感じで進んでいきましたよね。だけど最終面接で、ご存命だった五島昇会長の顔を見た時にはさすがに緊張しました。ところが五島さん、ぜんぜんこっちに興味なさそうで。絶対に話なんか聞いてないんですよ。おかげでかえってリラックスできて、いろいろ話せたのがよかったのかな。
……ありがとうございます。